4月26日、午前中の市内署名行動を終え、午後から約一万人が列をなし、ニューヨーク、ユニオンスクエアーから、国連目指して行進しました。日本からは約1000名が集結しました。岡山県参加者24名は「うらじゃ」を踊りながら周囲のニューヨーカーを巻き込んで行進し、元気いっぱいでした。「歩くだけの行進は面白くない。踊りでも何でも元気が出るパーフォーマンスを!」と事前会議で訴えたのは実は私。「それじゃー、うらじゃはどう?」と若者たち。おかげでニューヨーク行進の中で一番目立っていました。
「あしあと」カテゴリーアーカイブ
市長、NPT再検討会議議長へのメッセージを託す
20日、笠岡市長は、4月27日からアメリカニューヨークにある国連で開かれるNPT再検討会議の議長にあてたメッセージを、被団協を代表して渡米する土屋圭示先生と、核兵器をなくそう署名を進める市民の会から要請行動に参加する樋之津に託されました。土屋先生は、国連や市内の学校で語り部として活動され、私は原水協の皆さんと共に世界中から集まった平和団体と交流します。NY市内での署名活動、国連前のハマーショルド広場での署名わたしセレモニー、女性集会や若者集会、音楽会やNPT参加国代表への要請行動など盛りだくさんの日程です。全国460万筆(4月16日現在)、笠岡15000筆に込められた平和への思いをしっかりと伝えてきたいと思います。
更生保護女性会総会
Life is an Adventure
大平よしのぶ衆議院議員を囲んで
あなたはどう読む?
アップルタイザー
ただいま8500筆
なくそう核兵器の署名運動を初めて約ひと月の3月4日、それまで集約した約8500筆を、中央に送りました。3月10日の船便でNYに送るためです。短期間の間によくこれだけ集まったと思います。第5福竜丸を初めとしたマグロ漁船の被爆から62年です。反核平和の願いが束ねられ、運動として始まったとき、実に日本人口の半数の署名がNYに届けられました。戦後70年の歴史の中で毎年のこうした草の根の運動が核保有国に核兵器の使用を断念させてきました。3月1日のビキニデーに全国から多くの草の根運動を支える人たちが集まり焼津市で集会を開きました。前日28日の全体集会では、あらゆるつながりから市内をなめるように署名運動を広げている北海道での取り組みや団体の取り組みが紹介され、学ぶべき点を多く発見しました。私は笠岡の取り組みを紹介しながら、まだまだ目標には遠いですが、行政と協同して一人でも多くの平和を願う市民の声を集める決意を述べました。署名は4月中旬を最終時期として考えています。4月27日から始まる国連でのNPT核不拡散再検討会議に届けるために。
「戦争の 許しを告げた 第9条」(川柳)
木山捷平文学賞の川柳部門の入選者の一人が、こんな句を最後に載せていました。「税金の 真の用途が不透明」という句と合わせて私の目を引きました。作者は高校生です。若者の目に今の社会がどう映っているのでしょうか。国会では憲法の改正論議が国民の声をよそになされています。自衛隊が海外で戦う軍隊になってもいいの?憲法9条と言えば平和憲法として世界に誇るものなのにえっ?戦争許していいの?という彼女の不安や疑問が聞こえてきます。また、親の払う税金で政治が行われているのに本当にきちんと使われているの?と疑問を投げかけています。大人として責任ある行動と判断で若者に希望ある未来を提供しなければなりません。そのために何ができるかそれぞれの立場で考えたいものです。(記事とは関係ありませんが、写真は先日3.1ビキニデー集会に参加の際、焼津市に行った時のもの.消火栓のデザインが気になってとっていたものです)
笠岡を知る
真野光一氏は、受賞の言葉の中で触れられていましたが、北海道に住んでいて瀬戸内の笠岡市とはどういう所かと大いに興味を持たれ、調べられたそうです。そして笠岡が好きになったと締めくくられました。その理由の中に、職員の温かな、丁寧な対応があったことが語られました。各関係者への謝辞を述べられるなか、特にこのことが私の心に残りました。日ごろ市の職員の方とお会いしても、すれ違っても、日常の挨拶は私の方からかけることが多く、それでも返事が返ってこないときは、よほど悩みを抱えているのかと心配になるほどです。その点、真野氏に接触され、遠方からの招待に心を砕かれた職員に私は大きな拍手とねぎらいを申し上げたいと思います。人は宝なりです。ね?(写真は記事とは無関係ですが、選者の机上に使い古した皮のバッグが置かれてありました。味わい深く、持ち主の歴史と愛情を感じました。心にもとめ、カメラに残しておきたいと思いました。)