子育ての視点

 教育県を誇っていた岡山県が、平成22年度文部科学省の調査で暴力問題、不登校の発生率全国最悪の状態だと公表されました。これを受けての県教委の対策も問題です。私は、9月議会で子育ての視点をしっかり持った指導を求めて質問しました。教育長の視点は、自立に向けて豊かな人間性を培うと言われましたので、申し分ないわけですが、その指導においては、とかく発生した問題の現象のみをとらえて対症療法的な指導に陥りがちです。子どもは言うまでもなく生まれた時から周囲の環境によってつくられていくものです。家庭、地域、社会、経済、なに一つとっても子供たちの育ちに無関係ではありません。その中に問題行動の要因が隠されていても、それが何かを探り出し、ともに解決していくには時間も集団的な議論も地域の教育力も必要となるでしょう。個々のケースを判断しながら子ども同士の人間的な力を育てつつ問題を起こした子供を巻き込んで成長させていく道筋が求められます。

 しかし県教委の示した方向(ガイドラインによる)は、警察官を県教委の担当課に4名雇用し、「市教委や県民と連携し」解決するとしながらも「毅然とした姿勢で生徒に接する」よう教師の指導力をつけたり、ルールを徹底したりすることで問題解決にあたろうとしているように思えます。私は、教育現場には教育的指導が優先されるべきだと考えます。社会的犯罪でない限り、教育者の専門性を発揮して個人の、集団の指導力を結集して子供たちに接していくべきではないでしょうか。子供たちの苦しみや辛さ、もどかしさややるせなさ、なんで勉強なんかするんだ、なんで生きているんだと生の根本からの問いかけに大人はきちんと答えていかなければなりません。自分の人生にしっかりと根を張り、着実に歩を進めるためにも、子供たちの声を封じるのでなく、聞く耳を持ち、問題行動をさせないのでなく、どうしてそうするのか洞察力や分析力を養い、問題解決のために個人や集団をどう育てていくのかをお互い学びあいながら、長期的な解決を教育的に目指すべきと考えます。そのためにも、子供というものをどう見るのか、その視点はとても重要だと思います。育てるというのと、監視するというのとではうんと違いが出てきます。継続的に議論する必要を感じました。

誰が主人公のガイドライン?

誰が主人公のガイドライン?

子育ての視点」への1件のフィードバック

  1. 白井浩子

    子どもの教育のこと、大いに関心があります。
    何よりも、子どもたちに二度とない時期を嬉しく過ごしてもらいたいです。

    専門の生物学や進化の観点から、大変、重要な文献というか、児童心理、教育学の研究者を知りました。
    ヴィゴツキーといいます。以前に、私の新しい進化論を解説したとき、フロアーから、「ヴィゴツキーを読んだか?」と聞かれ、そのときは読んでいなかったのですが、最近、読んでみて大変共感しました。子どもに高次精神機能が発達してくる過程について、人類史的観点があり、両者(子どもの発達と、人類の発展)との重ねあわせ方に共感できるのです。両者が同じ、というのではなく、けれども、ともに発展していく、という点が統一的に捉えられているのです。(当時の他の研究者は考察なし、もしくは浅いのです。)
    ヴィゴツキーも、当時の教育学を批判して、新しい教育学の確立を目指したのでした(私が、進化論の通説を批判しているように!)。

    時代はスターリンの登壇すれすれで、結核で死ぬのですが、「結核でなければもっと悲惨な死に方をしたのではないか(粛清)とも思われ、むしろい幸いだった」などと評されています。でも、生前すでに批判され始め、業績は公表を禁じられたりしたのです。それが近年は解禁になり、アメリカでは彼の著作集が総て翻訳されるほどで、それだけでなく、世界で「ヴィゴツキー・ルネッサンス」といわれるほどなのです。

    それはさておき、ヴィゴツキーの独自なテーマに、子どもの「最・近接領域」というのがあります。一言で言うと、テストにおいて、「子どもが一人でできるレベル」Aと、「仲間もしくは周囲の援助と一緒にできるレベル」Bとでは、Bのほうが大である。(たとえば、子どもが一人では7才の問題をできるが、支援の下では9才の問題もできる、など。)そのABの差が、その子の「最・近接領域」です。そうして、大事な点は、<今日の「最・近接領域」は明日は自力となる>というものです。
    この場合、或る二人の子どもが等しくa才を示しても、片方の子どもはBでaよりも2才上の問題ができ、もう片方の子どもはaよりも4才上の問題までできる場合がある。最・近接領域が違うのです。一見、テストで同じ点数でも、実力の内容が異なるのです。

    当時の教育学は、子どもの発達のレベルを調べる場合、Aのみを問題にして、何も支援を与えない場合の能力を測るのが当然とされ、子どもたちに序列をつける、だけで終わっているような教育現場でした。かつ、学校の教材も、その自力のレベルの課題を与える、というのが常でした。これでは子どももつまらない、ですよね。
    けれども、ヴィゴツキーは学校での教育のよさ・大事さは、最・近接領域をぐんぐん伸ばしてやることが主たる任務である、と捉えるものです。これは、押し付ける(もしくは、何でも解説してしまう)、のとは全く異なることです。支援の下でもいいから、「分かった!」という感覚を得ることは、子どもでも大人でも嬉しいもので、それを味わったら、後はぐんぐん、一人でも「次はどうか、次はどうか」と自力で課題を見つける(疑問をもてる)ようになる、ということです。

    ヴィゴツキーの教育の考え方、つまり子どもに嬉しさを与える、というか、子どもの高次精神機能の発達を祈る思いやり、優しさ、支援の気持ちが認められて、実に嬉しいものです。
    岡山の子どもたちに、暴力や集中の欠如があるのは、恐らく、何か、学ぶ嬉しさから疎外されている条件があるのだと思います。かわいそうですし、もったいないです。伸びようとする力はあるのですから。
    先日ご一緒だった大会で、若者が「子どもを育てる」といいましたよね。ほんとうに嬉しかったですよ。彼に、手紙してヴィゴツキーのこと、書きました。
    ほんとうに嬉しく学ばせてやりたいです。 もっと、ゆっくりお話したいです。

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