福島は会津若松市に、笠岡市民病院から「僕が行って何かしなければ」と、震災後に向かった先生がおられます。なぜか、会わなければという思いに駆られて、お訪ねしました。こんなに遠いとははじめ思ってなく、郡山から1時間半もかかりました。電車に乗り換えて走る窓の外に、電車が右にカーブした時突然目の前に磐梯山が見えた時には山ってなんてきれいなんだろうと心を揺さぶられました。
福島は会津若松市に、笠岡市民病院から「僕が行って何かしなければ」と、震災後に向かった先生がおられます。なぜか、会わなければという思いに駆られて、お訪ねしました。こんなに遠いとははじめ思ってなく、郡山から1時間半もかかりました。電車に乗り換えて走る窓の外に、電車が右にカーブした時突然目の前に磐梯山が見えた時には山ってなんてきれいなんだろうと心を揺さぶられました。
jcp宮古ボランティアセンターですッ!(旧・住めば“みやこ)のサイトは「日本共産党の宮古地区ボランティアセンターです! 日々の活動や現地の様子を発信していきますね(^o^)」 ということで、地元の活動はもちろん、全国からのボランティアのことも紹介しています。
5月3日付の同ブログ記事「岡山からボランティアが続々来訪①」の見出しで紹介されていました。
宮古に来て3日目の4月27日には、津山の末永市議の地元から野菜やお米がたくさん届けられました。赤いトマトがとてもおいしそうでした。そういえばVCの中にある支援物資のおコメはほとんどが岡山産。岡山が宮古の台所を守っているという感じでした。やがて岡山から1300キロ以上の距離を走破、21時間かけてやってきた岡山農民連の人達が野菜を持って到着しました。明日の準備をし、夕食はみんなで買い出しに出かけ、農業談義に花が咲きました。いよいよ28日当日、8時には荷物の搬出がありますので早朝から出かける準備です。5台の車に荷物を詰め込み、スタッフも乗り込み、赤前地区の保育園に向かいます。搬入のみのお手伝いも含め、総勢42名がバザーのお手伝いをしました。保育園の園長先生を初め保育士の皆さん13名、盛岡から野菜を運んでのお手伝いのから、仮設の方も手伝わせてくださいと2名が参加、私たち岡山勢4名と地元支部の方・・多くの皆さんが手分けして準備です。外にはすでに100名以上の列ができていました。私達の役目は出口で洗剤セット、野菜セット、お米セットを必要なものを買い物袋に入れて帰られる皆さんに手渡しすることでした。天気にも恵まれ、元気に無料市を利用される皆さんの姿にほっとしたものです。本当に来てよかったと思いました。バザーの片づけの後は昼食交流会です。皆さんが一言述べられますが、仮設から来られた方が、「2年たちました。やっと娘の死亡届を出すことができました」と言われ、胸のつぶれる思いでした。皆さんのこと私たちは忘れません。という気持ちに改めて立ったものです。
仮設住宅の訪問が終わり、雨の中、被災した海岸線に連れて行って頂きました。一番ひどかったのが田老(たろう)地区です。8.2メートルの巨大堤防を誇るこの地区にはかつて海外を含め、多くの方が視察に来られたそうです。二重になっていてそれまでは禁止されていた家屋建築が、可能となり、海岸に近い便利な居住空間になっていたようです。しかしいったん津波などの災害では、最も危険な地域となり、何より安心して避難しなかったことが人命にかかわる大きな被害を招いたと言います。防波堤内側の陸地には何もなく、ただアスファルトの道路だけが走っているのが目につきます。あとは、家の土台となったコンクリートと雑草だけが広がっています。ここを町として再建し、人の暮らしが息づくのはいつの事でしょうか。住民の声を生かした街づくりが望まれます。ささやかながら仮設住宅の訪問と、住んでおられる皆さんの声を聴かせていただく今日の活動はその一端となる共産党の取り組みでした。お手伝いできて本当に良かったと思っています。
ボランティア担当のたかのはしさんに同行して仮設の訪問をしました。聞き取り活動です。訪問に際し、手紙と皆さんに使っていただく洗剤も用意されていました。私たちは2つの仮設を回りました。市内には、空き地を利用した仮設住宅地が62箇所もあります。今までのお隣さん、友人がどこにいるのかもわからず、離れた集会所でのイベントなどに出かけない限り特に交流もなく、一人で出掛けにくいお年寄りなどは、自宅にこもるしかないとわかりました。人とのつながりや交流を楽しむことって被災した人たちにはとてもむづかしいものだとわかりました。日中の仮設訪問では一人暮らしや一人でお留守番のお年寄りが多く、中には亡くなられた方、引っ越された方もおられました。
これまで赤十字、笠岡市社会福祉協議会、笠岡市、NHKなど、被災地への支援募金を母親連絡会の皆さんと共に届けてきましたが、今度は私が直接現地にボランティアに行くというので、宮古の日本共産党宮古地区委員会へ届けました。この二年間たゆまず地元被災者支援、復興支援を続けて来られた地区委員会の皆さんは、地元支部の皆さん、多くの各県ボランティアと一緒に活動を進められていて、この日も忙しそうでした。地区委員長の田中さんは市議でもあり、この日は議会開催日で、100万円の住宅資金援助上乗せ案が議決される日でした。共産党の提案と運動で皆さんの支持を得ているとのことでした。この後、ボランティア担当のたかのはしさん達に同行していただき、仮設訪問、聞き取り活動に出かけます。
昨日25日に宮古に到着しました。盛岡駅に着いたのは午後4時半でした。JR山田線の宮古行きは6時59分発です。ずいぶん時間があるので夕飯をとり、構内を散策しました。本屋で興味深い本を入手し、2階の待合室で残りの時間を過ごしました。荷物を持つ列車待ちの人にとっては、とても便利で快適な空間でした。ネットで宮古の状況を検索、事前学習もでき、読書もできて助かりました。30分前にホームに出ると、既に列車が入っており、しかもたった一両という素朴さに驚きました。所用時間は2時間30分。高速バスなら盛岡から1時間に1本出ており2時間で着くと伺っていましたが、バスの匂いの中で揺られるより列車がいいと判断した結果です。それにしてもJRは整備不足、宣伝不足ではないでしょうか。宮古に見るべき景観や歴史がいっぱいあるというのに。本数を増やし、宮古まで10以上ある駅の人達の足となるべきです。そういう訳で宮古のボランティアセンターには10時前に到着しました。宮古市の設置したボランティアセンターは既になく、日本共産党宮古地区委員会が震災当時から地域にある農家を借り受け、設置しているセンターにお世話になります。27日には岡山から支援物資を持って3名の方が車で来られるとのことでしたが、今日は私一人です。センターに入るとまずその天井の高さに驚きました。昔は蚕を飼っていたそうで、広い二階は蚕用の板張り大部屋だそうです。深夜にとても探検する気にはなりませんでしたが、一人暮らしに慣れている分「座敷童が出そうでしょ?」という心配にも笑顔で「出ても大丈夫」と返事を返せました。部屋には支援物資が山と積まれており、28日に行われる無料バザーに出品されます。